A design for life

I'm singing out my revolution song like nothing else matters

見えるものと見えないものと見ようとしないこと

下瞼にめばちこが出来ていて、ここ数日その存在感をだんだんと露わにしている。

まだ存在感がなかった頃は、「津川雅彦みたいな涙袋すごい人に俺もなれるかもしれない」とかしょーもないことを思ってウキウキしていたのだけど、軽くヒリヒリして存在感が増してくると鬱陶しくなってきてつい触ってしまう。

触ると熱を持つので余計に存在感が増す。この循環が鬱陶しい。鬱陶しいと思っていてもやめられない。早く潰したいがそれも出来ない。

 

ボーッとする時間があると、インスリン注射器のような「パチン!」と勢いよく針が出てくるやつでめばちこを潰すイメージが頭の中に流れてきて反芻している。その夢想の何回目かに眼球まで刺してしまって白目が真っ赤になるバージョンが来たところで我に返る。そして、また温くなってるめばちこを触っている。

 

意識すると視界にうっすらその腫れが見える。ぼんやりと映るそれは何も意識してないければ見えてないことになるものだから日常生活に不便はない。

 

この手の「存在」は厄介なものだと思う。

ないことにすればないし、あることにすればある。

しかし、なんと言ってもやっぱりこの手の状態の存在が私がとても苦手だ。「めばちこがある」のか「めばちこがない」のか決めるのは私だからだ。

 

「ないことにすればない」というのは無視のことだ。

「ないことにする」というのは「存在すること」を前提にしてるので一度は認知している。

それを「やっぱりない」と踵を返している。

ここには人間のれっきとした意志がある。恣意的ってやつだろうか。

例えば人間関係において無視というのが卑怯なのはそういうことだからだ。相手の存在を分かった上で否定しているのだから。

しかもその認知の動きを無視する相手に分かるようにやっている。

なのでこれはとても陰湿だ。極刑に近い。殺意がある。

無視のこのメカニズムが故に無視というのが私にはとても「白こいもの(白々しい)」に思てしまうのでどうしても出来ない。

「あることにすればある」も同じだ。人間の意志だ。

こうやって書いてて気が滅入るくらいにこの手の状況が私が苦手だ。

 

 

イギリスのバンド音楽が好きでずっと聴いている。特にブリットポップと呼ばれるムーブメント下で活動していたバンドが好きで、どうにも私がバンド音楽を聴いて音楽的な解釈をする上でブリットポップは大きな影響を与えているらしい。

馬鹿みたいなことを書いてるがこれは最近気付いた。もう20年とかブリットポップを聴いているのに、だ(そして、私は90年代のブリットポップはリアルタイムでは体験できてなくて後追いの世代なのだ)。

なので私の中にある「イギリスっぽいものが好き」という感覚はおそらく「ブリットポップっぽいものが好き」ということになるんだろうと思う。

だから、ブリットポップがその黎明期にある種の仮想敵にしたグランジも興味が持てなかったし、メタルっぽい音とかも苦手だったんだと思う。

それらの苦手な音楽を私は「情緒がない」と宣って嫌っていたんだと思う。単にブリットポップっぽくなかっただけなのだ。

ブリットポップを好きになりすぎた故にもうブリットポップというものが自分の中でどれほど大きな存在か分かっていなかったのだ。当たり前すぎて。

 

最近、ニルヴァーナが分かる様になった。分かるようになったというか、好きになった。ニルヴァーナの『ネヴァーマインド』と『MTVアンプラグド』が聴きたくて仕方なる瞬間があってそんなことは初めてだった。

あの力強く乾いたギターとかスネアドラムの感じが昔は苦手で「イギリスのバンドに比べて無機質で情緒がない」「残響(ディレイ)に感情移入ができない」とか変なことを宣っていた(もちろん、グランジブリットポップの仮想敵だったのも影響してる気はするけど)。

 

以降次回